2007.7.15 |
なぜ山に登るのか
3連休である。しかし、「大型で非常に強い台風」が7月14日に九州に上陸し、今日は東日本に近づく。楽しみにしていた山行は一休みである。
私は、いつの間にかサラリーマン生活が30年を既に過ぎた団塊の世代である。年相応に休息が必要であることから、先ずは、好日である。
これまで勤務してきた企業では、いつの頃からか、「コンプライアンス」を社員教育のテーマにし、企業価値を考える時間を割いている。それでも、人間の性ともいえる「ミスを隠す」個々人の事例がある。そのような人、そして組織は、素直に自らの価値を感じるテーマに時間を割く必要があるのかもしれない。
「先輩にあたる我々が後輩に何を伝えられるのか」のテーマは別の機会にするとして、今回は、「なぜ山が好きなのか」、「若者が敬遠している模索するカッコ悪さ」をボンヤリと考えてみた。
私の山への憧れを加速したのは、1950年6月5日、エルゾーグを隊長とするフランス隊による人類初の8000m峰に足跡を印したアンナプルナ登頂隊員の書物である。その中核は、ルイ・ラシュナル、リオネル・テレイ、ガストン・レビュファーらである。岩や雪に傾倒していった若者の心を揺さぶるには十分なメッセージであったと思う。
そして、例えば、私の近い先輩世代として小西政継さん(1938年〜1996年)、森田勝さん(1937年〜1980年)、長谷川恒夫さん(1947年〜1991年)たちが情熱を燃やし、我々の仲間も困難な登攀に邁進していった。
そのような困難な登攀の実績から出てくる人たちの表現は、味わいがあり、「なぜ」を解き明かすヒントにもなるような気がする。勿論、私ごときが論評できることではないのは確かである。
【登山者に割合知られている登山家の言葉】
山を登らない人にも割合知られている言葉としては、イギリスの登山家マロリーの「なぜ山に登るのか」という問に「そこに山があるから」‘Because, it is there’がある。それは、もしかしたら、説明するのが面倒くさかったためだったとも言われている。たぶん、そうだと思う。
では、真面目な代表の言葉から
●ガストン・レビュファー:
「私は思い出より憧れの方が好きだ」
●ラインポルト・メスナー:
「目の前の山に登りたまえ。山は君の全ての疑問に答えてくれるだろう」
●ワルテル・ボナッテ:
「アルピニズム・・それは筋肉や脚や腕の問題だけではない。成否を決めるのは精神だ」
●クリフトフ・プロフ:
「ふたりの登山者を結びつけるロープはクラシック・クライミングの本当のシンボルである。同じロープによって登ることで、深い共感、信頼、友情が築きあげられる。このような感情がないなら、記録は無意味である」
●トッド・スキナー:
「一歩を踏み出せるなら、もう一歩も踏み出せる」
●ダグ・スコット:
「フィックスロープは、そこに行く能力のない人まで辿りつけれるから危険なのだ」
●大島亮吉:
「おい、俺たちはいつかは死んじまうんだろう。だけれど、山だってまたいつかはなくなっちまうんじゃあないか」
●加藤文太郎:
「単独行者よ、強くなれ!」
●植村直己:
「あきらめないこと。どんな事態に直面してもあきらめないこと。結局、私のしたことは、それだけのことだったのかもしれない」
●小西政継:
「山とは金では絶対に買うことのできない偉大な体験と、一人の筋金入りの素晴らしい人間を作るところだ。未知なる山との厳しい試練の積み重ねの中で、人間は勇気、忍耐、不屈の精神力、強靭な肉体を鍛え上げていくのである。登山とは、ただこれだけで僕には十分である」
●長谷川恒夫:
「ザックさん勘弁してください。岩場さん、ザイルさん勘弁してください。グランドジョラスさん許してください。ぼくがここにいることが悪いんです・・・・・・」
●吉尾弘:
「クライマーという者は、所詮気の弱いロマンチストなのかも知れない」
もう一人、登山家と言えるか否かは別として・・・
●百瀬慎太郎(1892-1949)
「山を想えば人恋し、人を想えば山恋し」
●そして、気になる現役の山野井泰史さんの言葉(収集者不明)
「登る行為すべてが楽しい」
「ソロクライマーは100%近く死んでいるけど、それはいつもひとりで登っているから。楽しい登山もな いと寿命が延びない」
「挑戦的なクライミングは年に1回で十分」
「怖さを忘れて鈍感になる事はきわめて危険」
「山では寝なくて大丈夫。3日間ぐらいならば、普通に行動できる」
「5年先を考えないと、ステップアップしていけない」
「登る山と対峙したときに、自然に集中できるようでなければ、その山を登るのはやめたほうがいいかもしれない」
「足りないのではと思うくらい大胆に荷物を減らせば、スピードはあがるし、大自然を強く感じられる。エキスパートになるにしたがい、体につけるものは少なくすべき」
まだまだ様々な言葉を挙げれば紙面が足りなくなるが、求める登山・クライミングのスタイルで言葉が異なるのは当然である。
では、私はどうであろうか?
この歳になっても「まだ素直な言葉」で表現できない。私は、「なぜ、気取ることもなく、能力を誇示する程の者でもないのに素直な表現ができないのだろう」などと思いながら雨模様の戸外を見ている。
多分、私の山好きは、日常から離れた「あそび」であり、心躍らす対象が山から得られるか、新たな発見がいつもあるからなのかもしれない。心躍る対象の一つとして、冒険心がある。それが、たまたま山であるということだけである。人は不思議なもので、「金輪際こんな山行はコリゴリだ」と言っていながら、また同じ山行を繰り返す。お馬鹿といえばお馬鹿だが・・・。期待感かもしれない。
私が長年経験している企業活動では、「なぜ」を繰り返すことで、よりよい方向性、改善策を見出す目的が明確にあることから、わざわざ「なぜ」そのものについて議論する必要もない。
しかし、個々人の「あそび」についての意義付けは、そもそも不要だろうし、余計なお節介であろう。私にとっては、今回のテーマが少し難しくなってきた。「ヒトがなぜ山に登るのか」と御節介なテーマを考えるのは、一休みする。
【もう少しだけ、遭難における「なぜ」について】
前述した言葉を伝えてくれた登山家の殆どは、遭難を経験している。
私のような者でも、「人様に心配をかけた」事例がある。
人様に心配をかけた事例は遭難であり、人知れず自身が四苦八苦して生還した事例は、遭難とはされていない。「四苦八苦」した経験があるからこそ、なお山にのめり込むのであり、好きになる切欠になるのかもしれない。そして、「恋が愛に変わる」過程に似た想いが、私にとっての山なのかもしれない。
さて、国内における遭難といわれる多くの事例としては、ルートを外れたことによるものであり、それが遭難数の三分の二に相当すると言われる。人は、迷うと引き返すよりも「もっと不明な先」へと進む。勿論、立ち止まりながら危険回避を判断するのだが、どうしても楽そうに見えるルートを選ぶ。よく言われるとおり、「道に迷ったら沢を下るな」があるが、多くは早く目的地(下山口)に辿りつきたいとの心が勝ってしまい、沢のルートをとることとなる。これなどは、人間の性であろう。そして、経験不足、技術不足が加わると、更なる窮地へと突き進むこととなるのは明らかでしょう。
ダグ・スコットが「フィックスロープは、そこに行く能力のない人まで辿り着けれるから危険なのだ」と述べているが、私は共感している。
多分、現在は、少しばかりの経験と経済的・日程的余裕(そして高度順化し易い恵まれた肉体が)あればエベレスト登頂も難しくない時代のようである。もっと身近なハイキングルートを見ても同じである。丁寧に鎖場、フィックスロープがあるルートは、多くの地元の関係者の努力で整備されている。
確かに、ある意味の「冒険心」を満足させるだろうが、そこまで手を差し伸べる必要があるのだろうかと思えるのは、私の独り善がりだろうか?
いずれにしても、自然は、様々な楽しみを与えてくれる。最近、私のような団塊世代を含めた先輩世代が山を楽しんでいる情景に出会うことは嬉しいが、現役時代の地位も名誉も一旦捨て去って四季の風を楽しんでいただきたい。そして、既に大学進学率が40%を超える若者世代の多くが自信のない日々を過ごし、無関心を装う日常から少し視点をずらして海・山で冒険をして欲しいとも思う。もしかしたら、生きる喜び、若者の未来を感じつつ、小西政継さん、森田勝さん、長谷川恒夫さんたちを見る目も変わるかもしれない。私は、一応、恵まれた境遇で大学を卒業しているが、現在の若い大学・大学院卒の社員の表面的な(専門?)知識に感嘆する一方で、小西さんたちが活躍した肩書き不要の社会人の山仲間、グループの情熱を思い出し、郷愁に駆られている。
(雨が小降りとなってきた。少し支離滅裂になってきたので、次回で軌道修正したい。)
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